悪しき相対主義

悪しき相対主義と言う単語を聞いたのでメモ。

以下のページがわかりやすいか。
「人それぞれ」って言うな

異なる意見を乱暴に受容することで、一見意見を受け入れたかのように見せかけて実は受け入れていなくて問題の先延ばしをしている。みたいな理解で良いんだろうか。
「悪しき相対主義」の肯定意見としては、「その議論には時間をかけるだけの価値を見いだせないから議論を終わらせたい」と言ったところか。「もうどうでもいいよ」と言うと角が立つので「そういう見方もあるよね。うん。」で話を終わらせると。

「その問題はもっと深く議論するべきだ!人それぞれで終わらせるな!」・・・うん、もっともだ。
「もういい、意見が違うのは十分わかった。考え方は人それぞれだからね。万人が納得できる意見はない。」・・・うん、わかる。

人はそれぞれで、議論する価値基準も人それぞれだから、こういう食い違い、平行線、終わらない会議が出るのも仕方ないよね。・・・・ってこれなんて悪しき相対主義?

3 Comments

  • (lambda (x) (

    2008年5月28日 at 6:57 PM 返信

    1. 「議論を人それぞれで終わらせるな」vs「時間の無駄なのでもうその議論はしたくない」
    という議論にまつわる対立と、「悪しき相対主義」の話とは直接関係しないと思われ。
    (上のページでは例として引いているけども。)

    2. もともとは思想上の立場の話で、
    万人に絶対的に客観的な見方はないのと同様に、
    どんなに相対化しても個人にとってこれだけは譲れない絶対的なものの見方というのがあるはずである。
    それに無自覚な相対論者を指して、悪しき相対主義と呼んでいるんだと僕は理解してます。

    3. “議論”に関して
    議論のゴールは相手を説得することではなくて、相手との違いを理解することだと思います。
    これは噛み砕いて言うと
    「君と僕とは違うよね。」ではなくて、
    「君はこう考えるけどそれはこれが理由だからだね。僕はこの点で同意しないけど君がそう考えるのは理解できた。」
    という状態がゴール。
    まあ理想論だが。

  • けんじ

    2008年5月30日 at 10:42 PM 返信

    ふむむ。2について。
    > どんなに相対化しても個人にとってこれだけは譲れない絶対的なものの見方というのがあるはずである。
    なるほど。では逆に言うと「すべての概念は相対関係にあり、絶対的な評価or価値観は無い」と言いきるのが悪しき相対主義?
    しかし言い切るとなぜ「悪しき」なのか。
    絶対的な基準がないと決めつけることで思考停止しやすいからかな。

    うーむ、身近な例が無いとイメージしづらいな。こういう概念、哲学的なものを抽象化して考える力が無いようだ・・・。

    > 「君はこう考えるけどそれはこれが理由だからだね。僕はこの点で同意しないけど君がそう考えるのは理解できた。」
    > という状態がゴール。
    ごもっとも。
    自分の意見を通そうとするのがゴールになってしまう・・・。反省ですね・・・。

  • InariOgura

    2014年8月30日 at 8:39 AM 返信

    相対主義は相対主義の否定にまで寛容であるのかという事は永遠の命題ですよね。
    少なくとも相対主義を掲げる方々に言える事は、
    「貴方の周囲の人間の価値観が全て相対的に存在しているならば、貴方自身のその価値観にも相対性を見出す事が出来るはずですが・・・?」
    と言ったところかもしれません。

    人それぞれとは確かに至極当然の事なのでしょう。逆に言えばクローンでも無い限り同じ脳を持つ生物はいないでしょう。いや、クローンですら脳は同じではありませんかね・・・?
    これを「相対性の事実」と呼ぶ事とするならば、

    相対主義を掲げる方々が言う相対主義観は、「自己、或は自己と同じ考えを持っている人、或は自己で認めても差し支えない程度の都合の良い意見を持つ人」は、「相対性の事実」の外側である、というものです。

    言ってしまえばこれは至極単純な人間の自己防衛本能によって導きだされます。

    つまり、「自分にとって都合の悪い意見は論理的に無価値であると位置付け劣化させ、自己の脳内で重視しないように振る舞う(そういう意見もあるね、と言ってしまう)」
    これは異質な存在から自己を守る為に行う防衛手段です。
    自己以外、或は都合の悪い存在は、全て異質であると断定し、その存在の個性を無視し、只ひとえに「それも人それぞれ」という一点を以てまとめ上げ納得しようとしてふるまい、精神の保養をはかる事は、動物的に当然と言えるでしょう。

    相対主義とは本来多元主義的に振る舞われるであろうにもかかわらず、寛容主義的に振る舞われ、単に思考放棄と自己保身の為に使用されていると言ってしまっても過言では無いのです。

    この上で相対主義とは、極めて動物的な、被害者観や保身観を自己の内で正当化する、都合の良いツールなのです。
    自分がかわいくてかわいくて仕方のない事は、素晴らしい倫理観を保持した人間以外、皆同じであるかもしれません。
    しかしながら、自分がかわいくてかわいくて仕方がない余りに、そんなかわいい自分をイヂメる外敵に対し、「人それぞれなのですよ?知らないんですか?人それぞれを認められない程度のかわいそうな人なのですか?あなたは?ねぇ?」と言う事で、自己の保身を行い、
    即ち「人それぞれ」の「人」を、かわいい自分自身或は自分の都合の良い存在として断定し、「人それぞれを認めろよ。つうか認められないのってバカなの?ねぇ?」と、言う事で「私の意見を認めろよ。つうか私に都合の良い意見を認めないのってバカなの?ねぇ?」と言っているに過ぎないのです。

    まあ敏感に被害者観に浸り小鹿の様に怯えたかと思えば次の瞬間には死んだ魚みたいな目をして何かを悟ったかのような達観したお顔を見せて来やがる、どうしようもない、救いようも無い、育ちの悪い、それしか考えられない、真の馬鹿なのだと、断定してしまって、全く構わないと思いますよ。

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